大江健三郎にあたって〜本を読む黒歴史は時に肯定しなければいけない

先に言っておきますが、これはおちんちんが生えてる女の子と男の娘、どっちが好きか問題を解決するブログではありません(ちなみに後者のほうが好きです、前者も好きですけどね)。

 

ということで読書メーターにかけばよいものをこうして読書メーターを飛び出して、このブログでわざわざ書くことにしたんですけど、いや、なんでってなりますよね。なんででしょうね、これもまぁ人生なんで。

 

ということで、最近本を読んだんですよ。高校のときとか中学のときとか国語の教科書に載っている文を教師に読まされて、なんでこんな本が芥川賞を受賞するんだろうとか思ったことありませんか?

そして、授業もふわふわした感覚のまま終わってしまい、言われた通りの解答を覚え、試験に臨む。そして、習ったところがそんなに出ずに、結局その場で考え、それなりの点数を取って、大して納得もせずに帰ってオナニーしてこれからの休みを喜んでいたと思います。

いや、それでいいと思うんですよ、僕もいまだに意味不明ですし(中には、完全に理解してしまった天才が多くいると思いますが)、じゃあなんでわざわざ指導要領に掲載されているんだろう?ってなりませんか?

 

僕は高校を卒業して7年たった今、雪雨こんさんのエロ同人を片手にそう思うわけなんですよ。

だから、個人的になぜ指導要領に選ばれたのかとか、なぜこの作品が多くの読者、評論家に絶賛されているのかとか、個人的な見解で勝手に納得して、中高の国語の惰性で生きていた自分を反省し、惰性に生き、音読中にエロ本読んで勃起してた自分を肯定する必要があるなと感じたわけです。ということで、物置を掘り起こし、国語の教科書を物色してみる。うーん、ちょっとよくわからないので、日本文学史の便覧を眺める。「川端康成夏目漱石太宰治森鴎外三島由紀夫志賀直哉・・・」それにしても自殺が多いなぁ・・・と思いながらいろいろ調べてみると、どうやら日本人でノーベル文学賞を受賞しているのはカズオ・イシグロは加味しないとして、二人だけらしい。川端康成大江健三郎

 

すげえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ、世界に認められるってどんな文章力と英訳力だよと思うわ。

 

ということで、教科書に載っている作品のことなんて忘れて、川端か大江かどっちか読むぞってことに夢中になっていたが大江健三郎はまだ生きてるしと思って、大江を選択。選ばれた理由を調べると「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。その世界では生命と神話が凝縮されて、現代の人間の窮状を描く摩訶不思議な情景が形作られている (who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today )」という理由らしい。ちょっと何言ってるかわかんないっすわぁぁぁぁぁ・・・まぁ、そんなもんかということで本屋で「死者の奢り、飼育」を手に取り購入。さっそく読む・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

一応読み終わりましたとさ、いや、読み終わっただけなんですけどね。感想を書こうとしてるんですけど、ちょっと言葉を選ぶ必要がありそう。なのでここからはあくまで個人的な見解が多分に含まれているので、概要だけ知りたい人はここまであらすじだよーみたいな文章書くのでそこまで読んでいただけると嬉しいです。

 

まず、奇妙な仕事。これは、主人公が大学生活中に実験用に飼われた犬を処分するバイトを何人かとするんだけど、そこで犬にかまれてバイトどころではなくなる話。普通に怖い。

 

次に、死者の奢り。これも似たような話で医学部の解剖で使う人間の死体を薬につけて腐敗を遅くするバイトをするんだけど、そこで死体が自分に語り掛けている感覚や死体なのに生きている感覚などを主人公などが感じてしまう話。

 

<僕>は昨日の午後、大学の医学部の事務室に行って、アルコール水槽に保存されている解剖用の死体を処理するアルバイトに応募した。係の事務員によると、仕事は一日で終える予定で、死体の内、解剖の実習の教材になるものを向こうの水槽に移すということだった。


休み時間の間、<僕>は外へ出て、水洗場で足を洗っている女学生に出会った。女学生の話によると彼女は妊娠しており、堕胎させる為の手術の費用を稼ぐ為にこのアルバイトに応募したということだった。女学生は、もしこのまま曖昧な気持ちで新しい命を産んだら酷い責任を負うことになり、だからといってその命を抹殺したという責任も免れないという、暗くやり切れない気持ちでいることを話した。


午後五時に、全ての死体を新しい水槽に移し終え、附属病院の雑役夫がアルコール溶液を流し出しに来るまで、ひとまず管理人室に上って休むことにした。女学生が急に立ち上がって部屋の隅に行って吐いた。長椅子に寝させて看護婦を呼んだ。女学生は、水槽の中の死体を眺めていて、自分は赤ん坊を生んでしまおうと思い、赤ん坊は死ぬにしても、一度生まれてからでないと収拾がつかないと考えていたところだと告白した。
管理人室に戻ると、大学の医学部の助教授が、事務室の手違いで、本当は古い死体は全部、死体焼却場で火葬する事に、医学部の教授会で決まっていると管理人に話し込んでいた。管理人は狼狽したが、渋々、新しい水槽に移した死体を焼却場のトラックに引き渡す事を承諾した。助教授の話では、明日の午前中に文部省の視察があり、それまでに両方の水槽を清掃して、溶液を入れ替えなければならないということだった。管理人は<僕>に、アルバイトの説明をしたのが自分ではなく事務の人間だったことを覚えていてくれと言った。


<僕>は今夜ずっと働かなければならず、しかも事務室に報酬を支払わせるためには、自分が出かけていって直接交渉しなければならないだろうと考えながら、勢いよく階段を駆け降りたが、喉へ込み上げて来る膨れ切った厚ぼったい感情は、飲み込む度に執拗に押し戻してくるのだった。 

 

 

あらすじかくのめんどくさいからwiki丸パクリしました。

 

次に飼育。飼育は、第二次世界大戦中、黒人が乗った飛行機が〈僕〉の街に墜落してきて、殺すわけにもいかず、僕の家で<飼う>ことになるんだけど、言語も違うので、雄たけびが本当に飼うという感覚を覚えてしまう僕は、徐々にその環境に慣れていき、やがて獣を飼うから犬とじゃれあうような感覚を覚えるが、敵である兵士の存在を大人たちは危ぶまないわけもなく・・・

 

というような感じで、まだあるんだけどちょっとタイピングも疲れてきたのでこのくらいにしておきます。うーん、読んだには読んだけど、読んだという感覚を全く覚えない作品でした。これ教科書にありそう・・・内容意味不明だし、だって、教科書の本でおもろいやつひとつもなくね?という感覚に至りました。でも内容の異質さは本当に異常だし、考えたこともないバイトとか、うーん、まぁ、なんだろ、こういう作品がとてつもない評価をされるのか分からないということがわかっただけ良しとします。なんかすみません。「吉沢亮ってだれ?彼女は?年齢は?調べてみた」みたいなかすブログのオチみたいになってしまって・・・以上、あらすじと感想でした。

こんなブログですが、これからも読んでくださるとうれしく思います。それでは、

 

 

 

 

 

 

ということで、ここからは個人的な見解に基づいた大江作品について語っていきたいと思います。

 

まず、大江健三郎は前期中期後期と作品の体系が異なるんですが、僕自身大江を読むにあたって、前期だけ(あるいは中期をすこし)で十分な気がします。後期になると作品というより、その・・・まぁwikiで調べてください。ということで、前期作品、すなわち先ほど紹介した三作品になるわけですが、

 

まず、奇妙な仕事に関してです。この作品、なんと鍵かっこがないんですよね。バイトを一緒にこなすほかの人とちゃんと会話してるんですけど、ぜんぶ鍵かっこないんです。だからなのかいわゆるふわふわした感覚を覚えたわけです。これがおそらくですが、詩的な力で生み出した想像力の正体です。つまり、詩的な文章で作品の世界を枠組みをほとんど伴わない状態で作り上げてしまったんですね。

 

普通というか、大体、本にはがっちりした世界観の枠組みがあってその中で作家によって城みたいだったり家だったりして、作品を作り上げるんですけど、大江の場合、本当に少ない枠組みの中で世界を作り上げてしまうんですね。なんか夢の世界というか、そんな感じで、そんな枠組みでちゃんと世界を作るんだからすごい文章力ですよ。そして、大江は東大で仏文学を専攻していたみたいなんですけど、そこでかは知りませんが、サルトルという実存主義のパイオニア作品と出会うわけです。実存主義というものはちょっとその、まぁ哲学科の人に聞いてほしいんですけど、もう僕はよくわからないので報われない努力もあるみたいなものかなととらえてます。(ほんとうによくわかってないんで詳しい人いたら教えてください)

 

これがこの作品というか前期大江の作品に大きくかかわってきます。まず、奇妙な仕事。これはネタバレになるのですが、犬を淡々と処分していくんですが、途中に犬にかまれ、また、その雇い主が肉ブローカーで途中で逃げ出してしまうんですね。結局、主人公は一円ももらうことなく犬にもかまれ、完全に無駄に終わってしまうんですよね。つまり、実存主義をもとにその世界を詩的に作り上げてしまったんですね。世界は違えど、死者の奢りも同様な話になります。ようやく違和感の正体に近づけました。まず、詩自体よくわかってないですから。そんなこんなで、二作品の説明を終えました。



 

次は飼育ですね。これは、異化について言及されているとされています。あの、クラスに一人だけ、ちょっとずれているなとかいうひといませんでしたか?ていうか、例えば本当の天才というかそういう人たちってやたら敬遠されるというか、畏怖を覚えてちょっと距離を置くんですね。昔なんかで言うとまれびとなんか呼ばれたり(詳しくは折口信夫で検索)して、歓待しないと村として孤立するけど、恐怖ですよね、何してくるかわかんないし、だから殺したりしたなんていう話もあったそうです(六部殺しとか)、なんかこの文章を書いている間にも怖くなってきました。適当なことばっか書いてころそれないかって( ̄∇ ̄;)ハッハッハ・・・、というわけで、それをモチーフに書いたんじゃないかと思います。

 

それで、これ面白いのが、他人の足という作品があるんですけど、これは逆で異化してるといわれた、いわゆる従来大衆の中で浮いてしまうような人たちが集まる場所に普通の人が混入してくるんです。どうですか?ちょっとすごいなとおもいませんか?ちょっと終盤は疲れが出てしまい序盤もそうですけど、説明がかなり煩雑になってしまいましたが、あくまで個人的見解ですが、こりゃ、とるわ、ノーベル文学賞。すげえもん、生半可な詩的な文章書くと「それ、大江のパクリやろ」とか言われるレベルで多分そういう文章=大江健三郎みたいなのを作り上げってしまっている気がします。だって、普通の文なはずなのに詩的な感覚に至るんだよ、例えば死者の奢りの最後の「喉へ込み上げて来る膨れ切った厚ぼったい感情は、飲み込む度に執拗に押し戻してくるのだった。」とかも、なんか分かるというか、葬式に行ったときに感じる嗚咽というか、死について考える時とかに起きる感覚とかをこんなに簡単そうにかけてしまうんだもん。すごすぎるよ、ほんとうに………

死体をプールに沈めては浮き上がってくる様子が感情に移転させてるというわけなのか、妊娠してる女の子が死体を眺めるという異質な空間が広がっているわけです。死体が生きていると述べているわけですよ、死体という空間が普通の中に生きているという異質な空間が作り上げられているわけですね。そして、そこに生まれてすらいない赤ちゃんが生の中に存在しているという、なんとも形容し難い複雑な空間を事細かく描写し、そこに詩的な表現を加えることで読者を不思議な感覚へと導くといいますか。まぁ、そんなこんなで、ちょっとは教科書に載る作家の何がすごいのかわかってきた気がします。

これから風俗でフェラされながら打っているんでちょっとおかしかったり、意味不明なところはいってます。ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああまたいったわ。次のブログは三島由紀夫金閣寺か短編集、あるいは森鴎外阿部一族について見解を述べるつもりです。こんな稚拙な文章で幼稚な意見を最後まで読んでいただいて本当にうれしく思います。てか、これ4500字くらい書いてんだね。めちゃめちゃ疲れた、ブロガーの方達のタイピング力異常でしょ、それじゃ「彼女は?年齢は?調べてみた」みたいなブログ書くわこれ、いやでもそれは書かんでくれ



「これは論評として終わっている、本当はこういうことだなど」と、批判や意見がありましたらコメントいただけると嬉しいです。それでは、(๑’ ﹏ ‘๑)ノバイバイキン