豊饒の海を読んで  小学生が書く読書感想文

俺は普通の小学5年生、ひろし。どうもフェルミ研究所のおぐらです。

 

今回は二回目なんですが三島由紀夫についてお話したいと思います。題材は豊饒の海としたいと思います。いや、まぁこの作品に関するブログ書きたかったんですが、金閣寺は避けては通れないと思ったので、一応。

 

この作品を説明する前にあらすじと三島由紀夫の関する話を少しだけしておきたいと思います。

 


豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の最後の長編小説。『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語で『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻から成る。最後に三島が目指した「世界解釈の小説」「究極の小説」である。最終巻の入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した(三島事件)。
第一巻は貴族の世界を舞台にした恋愛、第二巻は右翼的青年の行動、第三巻は唯識論を突き詰めようとする初老の男性とタイ王室の官能的美女との係わり、第四巻は認識に憑かれた少年と老人の対立が描かれている。構成は、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に輪廻転生してゆくという流れとなり、仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬などの東洋の伝統を踏まえた作品世界となっている。また様々な「仄めかし」が散見され、読み方によって多様な解釈可能な、謎に満ちた作品でもある。
豊饒の海〉とは、月の海の一つである「Mare Foecunditatis」(ラテン語名)の和訳で、〈月修寺〉のモデルとなった寺院は奈良市の「圓照寺」である。なお、最終巻の末尾と、三島の初刊行小説『花ざかりの森』の終り方との類似性がよく指摘されている。

 

wiki参照

 

この作品の天人五衰を入稿した後に立てこもり事件を起こし、割腹自殺しています。

 

この作品を説明するにあたり、情報量と事前知識が多すぎて、自分は全くカバーしきれていないので、この作品背景などに興味があれば、ほかの人のブログや本を読むといいと思います。

 

この作品は三島由紀夫の最後の作品、ましてはこの作品後自殺するわけですから、超大作であり、思想、思考がてんこ盛りなわけです。つまり、このブログも長くなると考えます。覚悟の準備をしておいて下さい。ちかいうちに訴えます。裁判も起こします。裁判所にも問答無用できてもらいます。慰謝料の準備もしておいて下さい!貴方は犯罪者です!刑務所にぶち込まれる楽しみにしておいて下さい!いいですね!

 

 

というわけで、あらすじを書いていきます。これはWikipediaを読んでくれるといいのですが、まぁここにコピペしておきますか。

 

 

春の雪

 

勲功華族たる松枝侯爵の令息・松枝清顕は、出生時から貴族であることが約束され何不自由ない生活を送っていたが、流れるままの生活に何か蟠りを抱えていた。清顕は幼い頃に、堂上華族の綾倉家に預けられていた。本物の華族の優雅を身につけさせようという父の意向であった。
綾倉家の一人娘・綾倉聡子は清顕より2歳年上で何をやっても優れた優雅な令嬢である。そんな幼馴染の聡子は初恋のようでもあり、姉弟のように育てられた特別な存在であったが、自尊心の強い繊細な18歳の清顕にとって聡子は、うとましくも感じられる複雑な存在であった。聡子もいつからか清顕を恋い慕うようになっていたが、清顕は些細なことで聡子に子供扱いされたと思い、自尊心を傷つけられ、突き放したような態度をとるようになる。聡子は失望して洞院宮治典王殿下と婚約するが、清顕は、父が聡子の縁談話を話題にしても、早く嫁に行った方がよいという冷めた態度であった。しかし聡子は、清顕の想像を超えて清顕のことを深く愛していたのである。
いよいよ、洞院宮治典王殿下との婚姻の勅許が発せられた。清顕の中でにわかに聡子への恋情が高まってくる。皇族の婚約者となったことで聡子との恋が禁断と化したことから、日常生活からの脱却を夢見る清顕は、聡子付きの女中・蓼科を脅迫し、聡子と逢瀬を重ねることを要求し、聡子もこれを受け入れる。親友・本多繁邦の協力もあり密会は重ねられ、聡子は妊娠してしまう。中絶を聡子から拒否された蓼科が自殺未遂したことにより、清顕と聡子の関係が両家に知れ渡った。聡子は大阪の松枝侯爵の知り合いの医師の元で堕胎をさせられ、そのまま奈良の門跡寺院「月修寺」で自ら髪を下ろし出家する。洞院宮治典王殿下との婚姻は聡子の精神疾患を理由に取り下げを願い出た。
清顕は聡子に一目会おうと春の雪の降る2月26日に月修寺に行くが門前払いで会えない。なおも清顕は聡子との面会を希望するが、聡子は拒絶する。そして、雪中で待ち続けたことが原因で肺炎をこじらせ、20歳の若さで亡くなる直前に、清顕は親友・本多繁邦に、「又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」と言い、転生しての再会を約束する。

 

奔馬

 

聡子と最後に会うことなく清顕が死んでから18年。彼の親友であった38歳の本多繁邦は、大阪控訴院(高等裁判所に相当)判事になっていた。6月16日、本多は頼まれて見に行った大神神社の剣道試合で、竹刀の構えに乱れのない一人の若者に目がとまった。彼は飯沼勲という名で、かつて清顕付きの書生だった飯沼茂之の息子で18歳だった。試合後、本多は宮司の特別な許可を得て、禰宜の案内で禁足地の三輪山山頂の磐座へ参拝する。摂社の狭井神社でお祓いを済ませた後,御山の登り口にて野生の笹百合を見て、率川神社の三枝祭を想起する。山頂の沖津磐座と高宮神社に至る禁足地の山中で三光の滝で勲に出くわし、彼の脇腹に清顕と同じく3つの黒子があるのを発見する。本多は死に際の清顕の言葉を思い出し慄然とする。翌日の三枝祭の巫女の舞と百合を前に「これほど美しい神事は見たことがなかった。」という思いと前日の剣道の試合との混淆を体験するに至る。
本多は勲から、愛読しているという『神風連史話』を渡される。勲はその精神を以て有志達と「純粋な結社」を結成、決死の何事かを成し遂げようとしていた。勲は政界財界華族の腐敗を憤り、仲間と共に剣によってこの国を浄化しようと考えていたのだった。陸軍の堀中尉とも近づき、洞院宮治典王殿下にも謁見した。軍の協力に期待がもて仲間も増えるが、勲は、父の主宰する右翼塾「靖献塾」にいる佐和から、財界の黒幕・蔵原武介だけはやめろと忠告される。塾が蔵原絡みの金で経営されているのをほのめかされ、勲は自分の純粋の行為の目的が汚されたと感じる。佐和は、蔵原は自分が退塾して刺すか、もし勲がやるならば自分も同志に入れてくれと言う。自分が加われば塾に傷がつかず上手くやれると言うが、勲は何も計画していないと嘘で切り抜ける。
本多は勲の父・飯沼に誘われ山梨県梁川での錬成会にやって来たが、そこで勲の荒魂を鎮めようとする白衣の男たちを見る。勲は、「お前は荒ぶる神だ。それにちがひない」と父に言われる。そして、その光景は清顕の夢日記に描かれていた光景そのものだった。本多は勲が清顕の生まれ変わりであるという確信を深める。
堀中尉が満州へ転属になり、勲の仲間は減るが、財界要人の刺殺計画は佐和を同志に加え秘密裡に練られていた。ところがどこからか計画は漏れ、勲たちは実行前に逮捕されてしまう。本多は急遽、判事を辞して弁護士となり勲を救う決意をする。本多の弁護により、勲たちは1年近い裁判の末、刑を免除するという判決を受けて釈放される。勲は警察へ密告したのが父だったと知っても驚かないが、父に知らせたのが恋人の鬼頭槇子だと佐和から聞かされて茫然とする。酔った勲が、うわ言で「ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……」と言うのを本多は聞く。
12月15日、蔵原武介は伊勢に遊んで松阪牛を喰べた翌朝、知事と共に伊勢神宮内宮を参拝する。玉串と二脚の床几が用意され別格の扱いを受けるが、玉串を尻に敷く瀆神を犯したことを勲は知る。12月29日、勲は姿をくらまし、短刀を携えて伊豆山に向かう。そして、蔵原の別荘に忍び込み「伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」と言い殺害する。追手を逃れ、勲は夜の海を前にした崖で鮮烈な切腹自決を遂げる。第二巻は「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」と締めくくられる。

 

 

暁の寺

 

第一部 - 時代は1941年(昭和16年)から終戦の1945年(昭和20年)まで。
47歳の本多は訴訟の仕事で、かつて清顕と親交のあったシャム(タイ)の王子と、そのいとこの故郷であるバンコクに来ていた。そこで彼は、日本人の生まれ変わりであると主張する7歳の王女・月光姫(ジン・ジャン)と出会う。月光姫は本多を見ると懐かしがり、黙って死んだお詫びがしたいと言った。彼女は勲が逮捕された日付も、清顕と松枝邸の庭園で門跡に会った年月も正確に答え、明らかに生まれ変わりを証明していたが、後日の姫とのピクニックでは、脇腹に黒子はなかった。それから本多はインドへ旅行し、そこで深遠な体験をする。そして、インドの土産を月光姫に献上し、本多にすがって泣く姫との別れを惜しみながら日本へ帰国する。帰国2、3日後、日本とアメリカとの戦争が始まる。
インドの体験と親友の生まれ変わりに触発され、仏教の輪廻転生、唯識の世界にも足を踏み入れた本多は、戦争中、様々な宗教書を読みあさり研究に没頭する。ある日、仕事の用件のついでに松枝邸跡に足をのばしてみると、そこは焼跡になっていたが、偶然にも老いさらばえた蓼科に会う。本多は聡子に会いたいと思ったが戦局のきびしさでままならなかった。

 


第二部 - 時代は終戦後の1952年(昭和27年)と、15年後の1967年(昭和42年)。
58歳の本多は戦後、土地所有権を巡る裁判の弁護の成功報酬で多額の金を得て、富士の見える御殿場に土地を買い別荘を建てた。隣人には久松慶子という50歳前の有閑婦人がいて、本多の友人となる。別荘の客には他に、かつて勲と恋仲であり、勲の計画を父・飯沼へ密告した歌人・鬼頭槙子や、その弟子・椿原夫人、ドイツ文学者・今西康らがいた。しかし、本多が一番待ち望んでいた客は日本に留学して来た18歳のジン・ジャンであった。
5年前の1947年(昭和22年)に本多は、皇族の籍を失った洞院宮治典王が開業した骨董屋で、かつて学習院の寮でシャム(タイ)の王子・ジャオ・ピーが紛失した初代・月光姫の形見の指環を発見して買い取り持っていた。これを日本に留学している二代目の月光姫(ジン・ジャン)に渡すため、本多は別荘に彼女を招くが、その日、姫は来ず、十日以上経って漸く東京で会うことができた。幼い時、勲の生まれ変わりだと主張していたことを何も憶えていないとジン・ジャンは言う。美しく官能的に成長した姫に本多は魅了され、年齢不相応の恋心を抱く。そして、ジン・ジャンに執心し翻弄され、別荘のプールに招いた彼女の脇腹に黒子が無いことを確かめた。その夜、本多は別荘の部屋に泊まったジン・ジャンを覗き穴から覗くが、そこに見たものは、慶子と裸で抱き合う同性愛(レズビアン)行為の最中の光景だった。そして、その脇腹には3つの黒子があった。驚いていたのもつかの間、やがて別荘が火事になり、別の部屋に泊まっていた今西と椿原夫人が死亡してしまう。帰国したジン・ジャンもその後、消息を絶ってしまった。
15年後の1967年(昭和42年)、73歳の本多は米国大使館に招かれ、その晩餐会の席上でジン・ジャンにそっくりの夫人に会う。その夫人はジン・ジャンの双生児の姉であり、妹は20歳の時に庭でコブラに腿を噛まれ死んだと本多に告げる。

 

天人五衰

 

76歳となった本多はすでに妻を亡くし、67歳の久松慶子と気ままな旅をしたりして暮していた。本多は、天人伝説の伝わる三保の松原に行った折、ふと立ち寄った清水港の帝国信号通信所で、そこで働く聡明な16歳の少年・安永透に出会う。彼の左の脇腹には3つの黒子があった。本多は透を清顕の生まれ変わりでないかと考え、養子にする。そして英才教育や世間一般の実務マナーを施し、清顕や勲のような夭折者にならないように教育する。しかし本多は、透の自意識の構造が自分とそっくりなのを感じ、本物の転生者ではないような気もした。透は次第に悪魔的になっていき、養父・本多が決めた婚約者の百子を陥れて婚約破棄にする。東大に入学してからは80歳の本多にも危害を加えるようになった。
透に虐待されるストレスから本多は、20年以上やっていなかった公園でのアベック覗き見を再びしてしまい、警察に取り押さえられ、その醜聞が週刊誌沙汰になる。これを機に透は、本多を準禁治産者にしようと追い込み、自分が本多家の新しい当主として君臨しようと企む。見かねた久松慶子が透を呼び出した。そして、本多が透を養子にした根拠の3つの黒子にまつわる転生の話をし、あなたは真っ赤な贋物だとなじる。慶子は、あなたがなれるのは陰気な相続人だけと透を喝破する。自尊心を激しく傷つけられた透は、本多から清顕の夢日記を借りて読んだ後、12月28日に夢日記を焼いて服毒自殺を図り、未遂に終わったものの失明してしまう。21歳の誕生日の数か月前のことだった。事情を知った本多は慶子と絶交した。
翌年の3月20日の21歳の誕生日を過ぎたが、透は大学をやめ、点字を学んで穏やかに暮らしていた。性格は一変し、狂女・絹江と結婚して彼女のなすがままに、頭に花を飾って天人五衰のようになっていた。やがて、絹江に妊娠の兆候が現れた。一方、本多は自分の死期を悟り、60年ぶりに奈良の月修寺へ、尼僧門跡となった聡子を訪ねるのであった。だが、門跡になった聡子は、清顕という人は知らないと言う。門跡と御附弟は本多を縁先に導く。夏の日ざかりのしんとした庭を前にし、本多は何もないところへ来てしまったと感じる。

 

Wikipediaより》

 

ja.wikipedia.org

 

という感じです。長くなってしまいましたね。

 

あとこれは春の雪の最後に書かれているんですが、この作品は浜松中納言物語をもとにした夢と転生の物語であると書かれています。

 

ていうか、コピペしてて思ったんですがこのwiki相当ファンでしょっていうくらい細かく書かれていてこれ参照したほうがよさそうな気がしてきた、全部書かれている・・・。

 

 

はい。

 

結論が出ましたね。Wikipediaを見ましょう。それでは~~~~

 

 

この作品、月の海をラテン語訳したあとに邦訳したと書かれているんですが、以前金閣寺について語ったときのことを覚えてくれていると嬉しいのですが、月と海なんですよ。もうこの時点で震えが止まらないんですけど、月と海なんですよ。ここで前回話していなかった海が意味を持ち始めるんですね。おさらいをすると、月とは人類が絶対に到達できないものとして、三島由紀夫の中で天才、絶対的に違う何かを持ったもの(美しさや才能)として、月になぞらえて文章が書かれているんですね。ちなみにこの作品が作られるときにはアポロ11号が月に向かう話は出ているのも影響を与えていそうですね。では海というとこれは戦争、信仰心、神道だと考えられます。なぜかは後でお話します。では、この三島が体験した大東亜戦争といえば、いろいろあると思いますが、右の思想が強かった三島由紀夫が戦争とつなげるものといえば、そうです。神風特攻隊ですね。国のために自らを犠牲にして敵地に飛び込むあれですね。つまり、信仰心に生きた武士の精神が海とつながるわけです。

 

というわけで、このごり押しを少しだけでもつながるように、海に関するお話をしていきたいと思います。三島由紀夫の作品に海が関係しているお話があるのですが、はい、そうです。海と夕焼です。では、海と夕焼のあらすじを書いておきましょう。

 

これもwikiのそのまま載せますね。

 

文永9年(1272年)の晩夏、鎌倉建長寺の年老いた寺男の安里は、村童から仲間はずれにされている聾唖の少年を連れて、美しい夕焼けを見るためによく裏山の勝上ヶ岳を登った。その日、安里は頂きから見える稲村ヶ崎の海を眺め、羊の群れのような鰯雲から遠い故郷フランスでの少年時代を思い出す。
巌に座っている安里はその碧眼を少年の方に向け、自分の昔の出来事を母国語のフランス語で語り出した。少年は耳が聞こえなかったが、安里の言おうとしていることを目と目で直に理解しそうな澄んだ聡明な目をしていた。安里はかつて自分の身に起きた神託と、奇蹟の挫折を回想する……。
フランスのトゥールーズ伯爵の御領地セヴェンヌの羊飼いだった少年アンリ(安里)は1212年のある夕暮れ、丘の上の空から白い衣を身にまとった基督が降りて来るのを見た。主はアンリの髪に触れ、「聖地を奪い返すのはお前だよ」「沢山の同志を集めて、マルセイユへ行くがいい。地中海の水が2つに割れて、お前たちを聖地へ導くだろう」と告げた。
アンリはそれを誰にも言わずに躊躇していたが、数日後の雨の夕暮れに再び主は、年老いた旅人の姿で番小屋のアンリの元を訪れた。老人の姿の主は、「お前は神に遣わされた者なのだぞ」とアンリを促し去っていった。翌日アンリはその不思議な出来事を同輩の親友に話した。信心深い友はアンリを拝み始め、やがて近隣の羊飼いの少年たちもアンリの周りに弟子として集まり出した。
アンリと弟子たちが、別の村にいる8歳の預言者のところに行き神託のことを報告すると、牧場の地平線にある橄欖の木に金色の翼のある天使たちが群がって来た。子供の預言者は、「東のほうへ、どこまでも行くんだ」と言い、神託通りにマルセイユに行ったらいいと教えた。その頃、アンリのような体験をした子供がフランス各地で出ていた。

地平線の夕焼け
100人にものぼる子供たちがアンリと共に旅立ち、フランスやドイツの各地から数千人が、この子供十字軍に加入した。過酷な旅のため途中で病死する子も多く出た。3分の1の人数に減ったアンリの一行がマルセイユに着くと、数十人の少年少女たちが待っていた。彼らは港で一心に祈った。夕日の射す沈黙の海に向かって何日も祈り続けた。
だがどんなに願っても海が2つに分れることはなかった。その時1人の信心深そうな男がアンリたちに近づき、自分の船で聖地エルサレムまで乗せていきたいと申し出た。アンリたちはためらいながらも、それを受け入れて勇んで乗船した。ところが船は南のエジプトに向い、アレキサンドリアに着くと、男はアンリたちを奴隷市場で売り飛ばした。
……安里はそこまで語ると、その時の無念が蘇りしばらく黙った。勝上ヶ岳から見える海の空には壮麗な夕焼けが始まっていた。安里は故郷の風物や友人、死んだ十字軍の戦士たちの顔を夕焼けの中に見ていた。アンリは奴隷生活の間に仲間と再び行き会うことはなかった。聖地エルサレムを訪れることもついに出来なかった。
ペルシャ商人の奴隷となったアンリは、さらに売られてインドに連れて行かれた。その地で大覚禅師と出会って救ってもらったアンリは、禅師に仕えるようになり禅師の故国に付き添い、日本に渡る禅師のお供をして鎌倉建長寺まで来たのだった。禅の教えを受けたアンリは、見ぬ国を夢見たり、来世を願ったりすることはなくなった。でも夏の空に夕焼けの兆しを見ると、勝上ヶ岳に登って眺めずにはいられなかった。
老人の安里はかつて自身の身に起きた奇蹟の神託にもかかわらず、マルセイユの埠頭で海が2つに分れなかった不可解な不思議を今一度考えていた。安里はいつ信仰を失ったのか思い出せなかったが、どんなに祈念しても奇蹟が起らなかった「不思議」は明瞭に覚えている。そして、奇蹟などすでに信じない安里が今も解せないのは、神秘な沈黙の海に潜んでいる「不思議」だった。
今、晩夏に沈む太陽は海を血潮のように染めていた。安里の中にはもう故郷に還りたいという望みはなかった。海が2つに割れなかった時、故国の羊や人々はその夕焼けの海の中に全て消滅したのだと安里は考えた。でも安里は夕焼けの色が無くなり灰色になるまで、じっとそこから目を離さない。
あたりが夕闇に移っていく景色の中に佇む安里の足下の方から、梵鐘が響いてきた。その音のたゆたいは、時を告げるというより、時を溶解し久遠の中へ運んでいくようで、瞳を閉じて安里はそれに聴き入った。目を開けると夕闇に包まれ、夕焼けは終っていた。安里が、少年と寺に帰ろうと振り向くと、少年は両手で抱いた膝に頭を載せて眠っていた。

 

 

というようなお話なのですが、この作品背景があとがきにも書かれている通り、奇蹟の到来を信じながらそれが来なかったという不思議(今回で言う海がなぜ二つに割れなかったのか)奇蹟自体よりもさらに不思議な不思議という主題を、凝縮して示した。と述べており、神風が吹くといって特攻したが吹かず戦争に負けてしまったという神を信じる者にとっての終局的な問いかけをのしていると書かれている。

 

 

またこのあとがきによると、詩を書く少年、海と夕焼、憂国は本人の作品の中で重要な位置を示しているとも書かれている。

 

つまり、海 = 海と夕焼 = 神風 = 戦争   =    信仰心 がつながってもおかしくはなさそうです。

 

次にこの短編集には月という名前の作品があるのですが、これは月が見えている一人を見えていない二人が笑う作品なのですが、このみえているピータアは、三人でいろんな役になる遊びをしているときにしたこともない与えられた役を演じようとしたときに今まで考えたこともないようなことを考えだし、恐怖心に駆られ三人がいる塔を駆け上り、上を見上げお月様が見えるというんですね。ほかの二人は見えていないのに。普段誰も考えないようなことを考えてしまった結果、見えてしまったお月様。いわゆるそういうことです。

 

これを踏まえ、この作品を天才と戦争と信仰心が関連しているとして読んだ感想をかいていきます。

 

春の雪

 

まず、春の雪を読んだ感想として一周目はよくわからないが正直な気持ちでした。概要はあらすじに書かれているのですが、最初の文章だけ書くと「学校で日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、最も親しい友達の本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかに覚えているわけであった。あの戦争が終わった年、二人とも十一歳だったのであるから、もう少し鮮明に覚えていてもよさそうなものだ、と清顕は思った。」と書かれています。清顕は戦争のことを覚えていて、繁邦は覚えていないそうですね。このあとはあらすじ通りの話ですが、二周して思ったのは、なんか伏線を多用に張っている気がしたということです。あとがきにもかかれていた起承転結の起というか、ただこの伏線がものすごい多くて、これをすべて回収するのは、自分の知識では不可能そうなので気になったところだけ。月修寺にて、根本法典が暁の寺にて本多がインドにて思考する仏教の意識について。タイの王子と仏教についての話、など。多すぎて書くの面倒くさいのですが、夢日記などにもとてつもなく多くの伏線が書かれているんですよ。なんとなくなのですが、この一巻は前置きというか序章のようなものを感じます。これから始まる四つの話の主軸になるもののような(現に暁の寺は二部構成)。ていうかこの月修寺の元、多分なんですけど修善寺と名前が似ていて、修善寺三島由紀夫が中学生の時花ざかりの森を読んでもらった修学旅行でおとずれているんですよね。だから、修善寺の概念を含んでいる気がするんですよね。わからんけど。

そして、そこで見た富士山の白雪を見て、由紀夫を思いついたとも別本にて書かれているんですよね。なんか春の雪が三島由紀夫の作家としての人生を描いている感覚を受けました。この作品を通して、大きな枠組みというか、城の枠組みが作られたような感じがします。

 

次に「今、夢を見ていた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」なのですが、個人的に別作品の沈める滝を思い出しました。この作品は鉄や石にばかり関心を示し、女に対しての感情がなかったが、最後に出会った人妻の女顕子が不感症であることに魅力を感じるんですが、この作品、雪が大きくかかわっていて、雪が降ると下界と完全に遮断されることに主人公は喜びを感じるんです。ていうか、気づきました?人妻の名前と主人公の名前、そうなんですよ。これ同じ顕が入っているんです。そして、この不感症の女、なんと自殺します。このようにして、今までの作品と関連しているような作品にしている感じ集大成のような何かを感じますね。ほかにもいろいろあるのですが、疲れてきたので、次に行きたいと思います。もし、作品を読んで気になるとこれがあればコメントをくれたりしてくれれば一緒に考えてみたいと思います。

 

 

奔馬

 

この話、すごい剣っていう作品と似ていてたんですよね。この作品思想色が強いというか自分みたいな思想に疎いにんげんにとっては読み進めるのがとても困難でした。なので、簡潔に済ませてしまいます。この作品は、神社で剣道の試合をするんですけど、なんか感じませんか。神を信仰するところで剣の戦いをする。そうですね、武士ですね。武道に生きた生まれ変わりの一生を描いています。この作品では、神道を信じぬいた人間がデモを失敗し、神事を犯した人間を殺し、自殺するまでが絵ががかれているので宇賀、どうですか。神を信じた結果、敵地に特攻し、命を自ら失った話に似ていませんか。これが三島由紀夫奔馬と似ていて、根幹をなしているといった理由だと考えられます。海と夕焼の作品背景とも合致していて、三島の武士的思想と非常に似ていると考えられます。神道を信じた結果、自殺を招いてしまったわけですね。

 

暁の寺

 

暁の寺とは、タイにあるワットアルンという寺院の別名らしいんですね。僕も気になってタイに行ってみてきたんですが、とてもきれいでした。(小学生並みの感想)

 

話を元に戻します。内容はwikiに書かれている通りなんですが、この作品エロティシズムよりむしろ、仏教的思考に至る(最終巻のためにも)必要があって、その過程を

ここで描かないといけないので後半のエロティシズムに目が行きがちですが、前半のほうが重要だと考えました。この読み進め、どちらかというと、謎解きみたいな感じなので、感情とか文学思想に弱いですね。そういうのはほかのブログに丁寧に書かれているので、そちらを見てみるといいかもしれません。つまり、ここで暁の寺という意味を考えてみましょう。暁とは、夜明けのことですね。日の出前の、朝焼け、などの意味があります。寺というのは、仏教用語ですね。

 

そうです!!!!!!!!!!!!!!

 

対比構造です。

 

夕焼けを意味する神道の対比にあるのは、朝焼けと仏教なんですよ!!!!

 

つまり、夕焼けを否定しないといけないんですよ。そして本を読むと菱川というタイの案内人がこんなことを言うんですよ。「芸術というのは巨大な夕焼けなんです。一時代のすべての佳いものの燔祭です。さしも永いあいだつづいた白昼の理性も、夕焼けのあの無意味な色彩の濫費によって台無しにされ、永久に続くと思われた長い歴史も、突然自分の週末に気づかせされる。美がみんなの目の前に立ちふさがって、あらゆる人間的営為を徒爾にしてしまうのです。あの夕焼の花やかさ、夕焼雲のきちがいじみた奔逸をみては『よりよい未来』などというたわごとも忽ち色褪せてしまいます。」と書いてあってこの後、夕焼は本質的なものは一つもなく、死と無機物な存在そのものだ、と。夜には本質があると説いています。この話を聞いた本多は「すべての芸術が夕焼けだって?彼方には暁の寺が!」と言っています。

 

これどうですか。死と無機物、奔逸などから夕焼が一巻と二巻を意味してそうですね。これおそらく何ですが、源氏物語を含んでいると考えられます。本質は夕焼にないということは、夕焼とは太陽が沈む時を意味しているわけですから、雲隠という光源氏が死ぬ雲隠の部分をあらわしていて、雲隠には内容が一切ないんですね。本質がないですね。文が何も書かれていない題名だけなんですよ。そして、夜に本質があると説いているわけです。この「夜に本質がある。」どこかで聞いたことがありますね。そして、これを否定するため、本多は朝方に暁の寺を訪れ、仏教的考えをタイ→インドにわたって説くわけです。転生の不可思議性を仏教から導いたわけですね。これがいわゆる前半部分です。じゃあ後半部分いらないじゃん!!!と思うかもしれません。

 

 

後半は何が目的かというと本多が仏教から輪廻転生を説いた結果、清顕の生まれ変わりが存在すると確信し、その存在の証明に固執するんです。だから、前半は月光姫が生まれ変わりというが後半はその記憶を忘れているんです。多分。じゃあ、慶子とのレズシーンでは、ほくろがあったのか。おそらくですが、同性愛という美の世界に月光姫が入り込んだからなのではないかと考えられます。つまり、その空間には、美の誰も立ち入りできない世界が生まれていたんです。だから、火事になって、そこにいた他人が死んだのです。

 

これどこかの作品と似ていませんか??

 

そうです、金閣寺です。寺が入っている作品と似ているんですよ。源氏物語との関連性も踏まえると暁の寺の作品としての恐ろしさを感じると思います。この作品は物語における重要な位置を占めていそうです。まさに起承転結の転といった感じですか・・・・

 

ちなみにですが、金閣寺について前置きして説明していたのはこのためです。なので、ぜひこちらのブログも読んでみてください。(唐突な宣伝)

 

夕焼けに本質がなく、夜に本質があると書かれているという説明が源氏物語をもとにこのブログにてされています。

 

itomiku129.hatenablog.com

 

 

関係はあるかわからないんですが、本多はこの暁の寺において、蓼科から卵をもらうんですが、これも短編にある卵と関係している気がします、深くはわからないのでこれからも勉強していけたらなと思います。

 

天人五衰

 

読んだとき最後震えが止まらなくなりました。透は死なないし、聡子は覚えていないし、という感じで、さすがだな・・・・と思ったのですが、一応今までの話をおさらいすると、本多は仏教的考えに目覚めています。輪廻転生に目覚め、天才の生まれ変わりの存在に固執します。そこで見つけた、透は天才の生まれ変わりではなく、自らを天才とおごっていただけでした。天才は20に死んでいるわけですから。本多は自分がその転生の存在を信じてやまないため、寺にいる聡子を訪れるわけなんですが、清顕に関する記憶がないんです。それゆえ、あまりに覚えていないので本多は最初から清顕は転生なんてしていなかった。これは夢だった、そう考えてしまうのです。自分さえも夢だったのでは、この60年は何だったのかと考えてしまうのです。その後、裏山の庭に行き、記憶もなければ何もないところに来てしまったとおもい、庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・で物語は終わるわけです。月修寺は涅槃、解脱する場所だったわけですね。だから、すでに訪れていた清顕は転生ではなく、解脱していたことに本多は気づき、今までの転生が違うものだと悟るわけです。ちなみに夏は三島由紀夫にとって戦争を意味しているらしいんですが、このしんとしている感じ、おそらくですが終戦を意味していて、そうすると、春の雪の序文で本多が戦争についての記憶がほとんどないことを清顕が不思議がる部分と一致するんです。転生していると考え、その存在の証明に固執した自分の人生は何だったのか、と説く感じ、あれににてませんか?・・・・・・

 

 うーん、結局神道に舞い戻ったのか、仏教を信じた本多は解脱したのか。いろんな解釈ができて思考がうまく纏まりません…。

 

でも本多はあくまで大乗仏教の思想に取り憑かれた観測者みたいな立ち位置だしなぁ…。

 

 こういうの考え出したら自らの感想が疑問だらけになって正しさが失われ始めたのでここらへんで考えるのはやめて、無意識に抱いた感想という形でここにおいておきます。

 

 

三島由紀夫の思想への興味はあまりないのでこの本を提出した日の意味などはわかりませんが、この作品を通して三島由紀夫が書きたかったことを少しでも理解できるようになれたらと思います。でも、三島由紀夫は45という歳に自殺をしたわけですから、それをこの作品にふまえると、20で自殺したのって奔馬の勲だけなんですよね、他は死んでるんですよ(清顕は沈める滝の顕子から連想するなら自殺という捉えても可)なので、それでも作者は神風を信じたのかなとか思ったりしました。

 

ぼくとしてはこの作品を通してある戦争の一生を描いたような感覚を覚えましたが、前文の通り、様々な解釈があるとのことで色々な解釈ができたらなと思います。古代から近代にかけての思想を全てまとめた城のような何かを感じます。

 

 なんか、実質四冊分もあるから書く量多かったけど、思考が文字にまとまってないので、感想になってなさそう。まぁいいや

 

以上、小学生の読書感想文でした。ばいば~~~~い

 

 

 

 

(注釈)

 

一応源氏物語とこの作品の共通点を説明しておきます。

 

光源氏  太陽 ≒ 神

 

柏木 光源氏の息子の友達、源氏の妻と不倫し、その後重い病にかかり、若くして死亡。

 

雲隠 源氏が死亡する = 太陽が雲に隠れ、日が沈む = 夕焼け

 

匂宮 源氏の孫

 

薫 柏木の息子、生まれた時から仏の出す香りがする。

 

 

 

ここからはこれを踏まえた感想の続きとなります。

 

金閣寺のときに軽く説明をしていますが、源氏が主役の世界神の世界よりも、その後の光のない世界、認識の世界、仏教の世界に本質があると考えているわけです。

 

これを踏まえると、本質において目が見えない観測者において、薫と匂うどっちがすぐれているかというと薫になるわけです。仏のような香りがするという点において認識の世界に対し、本質的な立ち位置にいる薫なわけです。じゃあこの人物が生まれるためにはその父親が必要ですね。それが柏木なわけです。だから金閣寺において柏木が根源的な性質を持っているわけです。では、この作品において金閣寺の柏木のような人物はいるのでしょうか。

 

不倫という禁断の恋をし、その女の夫が自分よりもえらい人物、そしてその後相手を懐妊、責任を取ろうとした結果、重い病にかかり、死亡した人物。

 

 

そうです、清顕なんですよ。清顕の息子、これはこの作品における、転生だととらえると、勲だと思われます。なので薫と感じが似ている、そう考えられます。

 

あれ?でも勲は神道に行き、神道に死んだ男であり、仏教と無関係ではないのですか?となりませんか。それも含めてニルヴァーナ(涅槃)に含まれてしまっているのではないかなと思います。だから夜の海で自殺したのではないかと、

 

透が目が見えなくなったのは、本質の世界における本質の観測者になったからだと考えられるわけです。もう、この世界はすべての思想、思考が仏教の認識の世界に包含されてしまっているわけですから。そのため、本多の見てきた仏教、神道、の世界が否定されなくてはならない、そしてそれを知ったものが、目を頼らない世界に行く必要がある、だから、本多の思想を受け取った透は目を失ったのではないかと考えられます。

 

 

なので、聡子が清顕のことを覚えていない理由も本多が観測者としての役割を終えたことを意味しているのかなととらえています。本多の使命は通るに思想を導入することだったのではという考えです。あくまで観測者としての立ち回りをしているも、仏教の考えを取り入れてからだんだんくるっていって観測者としての意味が失われていく感覚がありました。

 

 

 

いろいろな解釈と思想と伏線と背景が混ざりすぎて、僕には一貫した解釈ができていないので思想と考えと対立構造にウソと不備とずれが多くみられるのですが、皆さんの都合のいい鵜分だけ切り取ってくれると嬉しいです、このずれを少しでもへっらせるようにこれからも研究を続けていきますのでよろしくお願いします。

 

これから忙しくなるため、ブログの投稿品頻度は落ちると思いますが、いいねコメントぜひお待ちしております。